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真実性補題

ジャズ いつか数学

Let me talk about Eric Dolphy (1) - エリック・ドルフィーの死とモノガタリ

Eric Dolphy

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 エリック・ドルフィー(Eric Dolphy)の没後52年となる今日、「Let me talk about Eric Dolphy」と題し、彼の死を悼み、彼の音楽を聞くとともに、彼について語っていこうと思います。

 この記事では、彼の人生とその終わりについて書いていきます。

 

影からきた魔法使いのモノガタリ

 振り返ってみると、エリック・ドルフィーは最初から最後までとことんツイてなかったわけです。ジャズ評論家のローラン・ゴデーがかつて述べたように、その生涯はずっと「影との戦い」でした。

 

 

影との戦い

 まず、西海岸でデビューしたときのグループリーダー、チコ・ハミルトン(Chico Hamilton)の使い方が悪かった。チコはドルフィーのフルートをフューチャーするばかりで、もっと過激なアルトやバスクラによる録音機会をあまり与えませんでした。悪いというか、西海岸風のムードミュージックを主体としたグループだから仕方ないのですが、そのせいでドルフィーは名を上げるのが遅くなりました。西海岸にいた1958年から1959年の間、既に独特の演奏スタイルを完成させていたにもかかわらず燻っていたわけです*1。この時すでに齢三十を超えています。

 1960年、東海岸に出てからは良い人たちと付き合いました。チャールス・ミンガス(Charles Mingus)、オリヴァー・ネルソン(Oliver Nelson)、一時期ルームメイトだったフレディー・ハバード(Freddie Hubbard)、同じく一時部屋を共にしたブッカー・リトル(Booker Little)、それに加え西海岸時代から交流があったオーネット・コールマン(Ornette Coleman)とジョン・コルトレーン(John Coltrane)。錚々たる面子です。

 ただ、やはりドルフィーはツイていなかった。『Far Cry』で初対面ながら相性の良さを示し、『At The Five Spot』では双頭クインテットを組んだブッカー・リトルが1961年10月に亡くなってしまいます。ブッカー・リトルがもし亡くなっていなかったらというifを考えてみると、ドルフィーコルトレーンのグループから抜けた62-63年にドルフィー・リトルでレギュラーグループを組んでいたと思います。ドルフィーは不運に不運が重なって一回もまともにレギュラーグループを維持することなくその生涯を終えたわけですが、組めるなら組んだ方が良いわけです。なぜならば、評論家のジャック・クックが『Out To Lunch』について「もしドルフィーが本当のリーダーにならなければ、彼の音楽がこれ以上発展するとは思えない」と語ったように、レギュラーグループによる恒常的な音楽的交流はドルフィーが最も必要として与えられなかったものの一つだったからです。リトルが23歳という若さで夭折したのはドルフィーの音楽にとっても不幸なことでした。

 62-63年は『Iron Man』『Conversations』のいわゆるダグラスセッション以外、リーダーとしての録音がありませんでした。おまけに評論家たちに叩かれ、聴衆にも理解されず、その日食べるものにも困るような状況でした。彼の貧困を象徴するエピソードとして、まともに食料を買うお金が無い中なんとか糖質を補給しようと安価な蜂蜜ばっかり舐めていたという話が伝わっています。蜂蜜を舐めすぎたせいか、ドルフィーは栄養が全然足りていない痩せ型体型でありながら糖尿病に罹りました。この病は、1964年6月29日に彼を殺すことになります。

 

ついに得た勝利、ヨーロッパへの逃亡

 そうして晩年、1964年に入ります。2月に彼が録音したのは唯一のブルーノートレコード作品であり、「ドルフィーは彼を認めようとしない世界を相手に賭けをやった。彼は自分の才能全てをベットしイカサマをしてでも勝とうという執念に燃えたが、死ぬすこし前、とうとう賭に勝ったのだ」(『ぼくたちにはミンガスが必要なんだ』p118 より一部改変)とまで言わしめた、『Out To Lunch』です。

・Eric Dolphy - Something Sweet, Something Tender (『Out To Lunch』1964)

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 フリージャズとアバンギャルドジャズと現代音楽が混ざったようなこのグロテスクかつ美しい音楽は、ドルフィーからしても異質なものでした。詳しくは別の機会に譲りますが、その大きな異質性の一つとして、それまで作曲する人間ではなく楽器を吹く人間だと思われていた彼が作曲の分野で特異な才能を見せたことが挙げられます。

 『Out To Lunch』後、彼はチャールス・ミンガスのヨーロッパツアーに同行し、四回目のヨーロッパ紀行を始めます。彼がアメリカを離れたのは理解者と仕事口を求めてでした。どちらもミュージシャンにとっては深刻な問題です。

 

 1964年のミンガスグループは本当に素晴らしい出来でどの曲のどのライブバージョンも味があるのですが、詳しくはまた別の機会に置いておくことにしてここでは示唆的な二つだけ取り上げましょう。

・Charles Mingus Sextet – So Long Eric (Norway, 1964 Apr.12)

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・Charles Mingus Quintet – Meditations on Integration (Belgium, 1964 Apr.19)

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 「So Long Eric」には、黄金に輝く奇跡のような生の迸りが記録されています。十数コーラスにわたる長いアドリブの中、アルトサックスを携えどこまでも高く飛躍していく様は完璧としか言いようがありません。アウトロでまだ吹き足りないとばかりに再びソロを取るところにも眩しいほどの輝きを感じます。一方、「Meditations on Integration」からは濃厚な死の匂いが漂ってきます。バスクラリネットの音色はグロテスクさを超えて禍々しい何かになっており、フルートを持てば異界へ導いていくような趣があります。なんという表現の深化でしょうか。

 1964年4月、ミンガスヨーロッパツアーのライブでは毎回コレが起こっていたのです。凄まじき生と凄まじき死が、そこにありました。

 

最後の日

 さて、ヨーロッパを離れるミンガス一行を見送り彼の地に残ったドルフィーは、地元のミュージシャンや彼と同じくヨーロッパに逃げてきた黒人ミュージシャンたちとセッションして音楽漬けの日々を過ごします。プライベートでもパリで婚約者と同棲するなど充実していたようです。

 しかし、彼の命の火はもう間もなく消えようとしていました。死の27日前にドルフィーが残したのが、遺作と名高いアルバム『Last Date』です。彼の死後、追悼盤としてこのアルバムは発表され、ようやく世界は彼に対する評価が間違っていたことに気づきます。もう、何もかも遅すぎましたが。

・Eric Dolphy - you don’t know what love is (『Last Date』1964 Jun.2 )

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 ――そう、これが悲しい幕切れ、死を暗示した白鳥の歌ドルフィーがフルートで示した極致、幽玄の響きでした。この名演と引き換えに彼は死ぬことになります。1964年6月28日、コンサート中に突如昏睡状態になった彼は病院に担ぎ込まれました。しかし、黒人なら麻薬の過剰摂取だろうという安易な思い込みから誤診され、糖尿病に有効な治療を受けることなく翌29日に亡くなります。享年36歳でした。

 

 本当に、『Last Date』で全てが終わりだったのでしょうか。この2ヶ月前には「So Long Eric」を演奏していたということを、あの圧倒的な生の迸りを思い出してください。あんな生命力に満ち満ちた人間がたった50日でここまで死に近づくものでしょうか。「So Long Eric」での彼と『Last Date』での彼がとても同一人物だとは思えないのです。「So Long Eric」での彼が本物で『Last Date』でのそれが偶然の結果だとすれば、『Last Date』以後の録音があっても良い気がします。また、悲運の中で戦い続けた彼が、死の直前昏睡状態に陥る時さえ演奏中だった彼が、『Last Date』で歩みを止めるとはどうしても思えないのです。そして実際に、『Last Date』は「最後の日」ではありません

・Eric Dolphy – Serene (『Last Recording』1964, Jun.11)

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 このように、現在では『Last Date』以後もいくつか録音があることが分かっています。内容的に『Last Date』に勝るものではないですが、「So Long Eric」から素直に繋がってくるような暖かい演奏です。だからむしろ、『Last Date』が異常ということになります。あの「恋の味をご存知無いのね」は一体何だったんでしょうか・・・。

 ここでは彼がアドリブの面で新たな試みをしている様子がうかがえます。予想通り、彼は『Last Date』で歩みを止めていなかったのです。彼は鉄人、The Man Who Never Sleepと称されるべき人物でした。最後の日まで、エリック・ドルフィーは生きていたのです。

 

影と死とモノガタリ

 ジャズマンには、死に時があります。

 ブッカー・リトルは明らかに早過ぎました。ドルフィーの死の3年前、23歳の若さで亡くなるなんて、あまりにも惨い運命の導きでしょう。

 ジョン・コルトレーンは丁度良く、というよりも、死ぬなら今しかないというタイミングで壮絶な死を迎えました。ドルフィーの死の3年後でした。

 オーネット・コールマンはつい最近、2015年6月11日に亡くなりました。フリージャズの開祖ということもあり難しく捉えられることが多かった彼ですが、後世の活動をみると本質的にはハッピーな音楽をやりたかったらしく、長年の音楽活動で自分の印象を改めた末に亡くなりました。彼の音楽は、いつも笑えました。

 そして、エリック・ドルフィー、彼は「いつ切れてもおかしくないがいつ切っても惜しい」と言うべきでしょう。ドルフィーは常に全力だったし、成長を続けていたし、そのための努力を欠かしませんでした。余りにも真摯に音楽と向き合い、心配になるほどのめり込んでいます。だからでしょうか、彼の音楽には常にどこか切迫感があります。経済的にも精神的にも余裕があったはずの時期でさえそうなのですから、彼の切迫感は彼を取り巻く外面的環境だけでなく自らの内面も大いに作用した結果に違いありません。彼をそこまで駆り立てるもの、あたかも「自分には音楽しかない」と思っているかのような行動の底にあるものが何かは、もはや分からないことです。それは死を誘う猛烈な渇きだったのでしょうか。その決して満たされることのない渇きを満たそうと、彼は36年の生涯を駆け抜けたのでしょうか。

 だとしたら、それはとても悲しいことだと思います。彼ほど人に優しくジャズを愛した人間が、まさに自分の信じる音楽の正しさゆえに大多数から理解されず、「アンチジャズ」だと罵られ、影から自分を覗き込んでくる死に怯えていたなんて、理不尽というかある意味この世の理というか、ともかくおかしいではないですか。そう、感情的にはおかしい。しかし外なる破滅――不理解・貧困・病・死――と内なる破滅――音楽に対する破滅的探求心・「正しいことを言わなければならない」という信念――の二つに挟まれ、この二つの境界線上でいつまでも飛び続けることは誰にも叶いません。実際のところ、ドルフィーが「正しいことしか言わない」という覚悟を持った時点で、外なる破滅と死までもが約束されていたように思えます。影は彼の外に投射されますが、光を遮り影を形作るのは彼自身なのですから。

 内と外に破滅を抱えたドルフィー。彼はいつ死んでもおかしくありませんでした。けれども、その人間性と音楽と覚悟は余りにも崇高で、いつ死んでも惜しまれます。あるいは、彼はいつ死んでも途上の死と呼ばれなければならないのです。なぜなら、彼は生きている限り、内外の破滅を抱えつつ前へと進むのですから。その証拠は、彼が最後の日まで生きていたということは、既に見た通りです。途上の死は惜しまれるものです。ドルフィーの死は惜しまれなければなりません。

 

 本質的に悲しく、死に最も近い音楽を作っていたエリック・ドルフィー。彼の音楽は、いつも泣けました。

 

 

 

 「Let me talk about Eric Dolphy (2) - エリック・ドルフィーが切り開いたもの」に続きます。

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*1:スタイルの完成はもっと前だったという説もありますし、ドルフィー自身はこの頃の演奏をてんでダメだったと語っていたりするのですが、僕は1960年に繋がるスタイルが整ったのは1958年とみています。ここら辺のことはいずれまた取り上げるつもりです。