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真実性補題

ジャズ いつか数学

『流動体について』に決着を:小沢健二、”今・ここ”への讃歌 (15000文字)

小沢健二

前の記事の続きです。

c-manifold.hatenablog.com

 

小沢健二の新譜「流動体について」について、あれから考えていったことをまとめます。考察や解釈がメインで、感想は最後に軽く置く程度です。

今回は全体に一応の筋を通すことで、<神>に対する一応の回答を得ました。ただ、だいぶ独自路線をとった個人的なものなので、皆さんの参考になるかは不明です

前回同様に注意しておくと、筆者はリアルタイムでオザケンを追っていない世代であり、この記事の読者としてはオザケンの文脈をそこそこ持っている方を想定しており、そして今回15000文字とアホみたいに長いです。以上、ご了承ください。

 

 

 

 

解釈に入る前に

 

前の記事で僕はこんな事を書きました。

結果的に、ほぼ筋の通った解釈が完成したことで難解さはいくらか軽減されました。おおよそのメッセージは「あのときは間違ったけど、それも全部決まっていて仕方ないような気がする。でも、結果が決まっているとしても良いことは為そうと思わないと始まらない。将来また間違った結果に終わる可能性もあるが、とにかく今良いことを決意しよう」だと僕は思います。

僕が『流動体について』に乗れなかった理由:小沢健二の神様観の変化? (7000文字) 3/1 追記 - 真実性補題

今分析すると、この解釈は歌詞の後半部分(ジャケットだとオレンジ色で書かれている部分)に重点が置かれています。

また、背景には「“やっていかなきゃいけない”という切迫感や悲痛な祈りが曲のどこかに隠れていて欲しい」という願望がありました。これは正しく固定観念ですが、一方で以前のオザケンの慣性から生まれたものでもあります*1

この思い込みから、切迫感を求めるなら全体の流れの中で浮いている<神>あたりが一番妥当だろうと、そう僕は無意識に判断したのかもしれません。「神の手の中にある」を慣用句的に解釈し、決定論を引き出し、決定論と意思の対立という形で切迫感を生んだわけです*2

 

さて、この記事を書くにあたり参考にさせていただいた記事があります。

design.syofuso.com

 

「多様性の許容」とか「赦し」を軸に全体を見るやり方です。なるほど、めちゃくちゃエモいテーマですね。何かに対する大きな肯定はまた、『ゲシュタルトの祈り*3を想起させます。

 

これはどちらかといえば歌詞の前半(ジャケットだと水色で書かれている部分)に重点を置いた見方だと思います。

ここからは、元記事様の考えと大きく離れることを明記しておきます*4。僕は「多様性」ということだけ抽象化し拾ってきて考えました。すると、歌詞後半の部分に分からないところが多数出てきます。

だけど意思は言葉を変え

言葉は都市を変えてゆく

躍動する流動体 数学的 美的に炸裂する蜃気楼

彗星のように昇り 起きている君の部屋までも届く

ここは何回考えても前後の流れから浮いています。それに、多様性と一切関係なく思えます。加えて、「だけど」というのは何に対する逆接なのでしょうか。

 

それが夜の芝生の上に舞い降りる時に

誓いは消えかけてはないか?

深い愛を抱けているか?

ほの甘いカルピスの味が 現状を問いかける

この連、”それ”が舞い降りた結果、誓いが少なからず薄れたように読み取れませんか? 多様性をただ信じるだけなら、こういう危うさを書く必要は無い気がします。

 

それが夜の芝生の上に舞い降りる時に

無限の海は広く深く でもそれほどの怖さは無い

人気の無い路地に確かな約束が見えるよ

ニュートラルな状態では、「無限の海」は怖いってことですよね? やはり、ただ肯定するだけではないようです。

 

元々僕が持っていた解釈でもそうですが、「多様性」を軸にしてもこのように疑問が山積します。ここら辺を上手く消化した解釈、歌詞前半に重点を置いた解釈と後半に重点を置いた解釈の統合を僕は目指しました。

 

 

今回の解釈の基本方針

 

僕の出発点となった発想は次のようなものです。「何かを否定することなく肯定するものをただ増やしていけば、無意味に漸近していくだろう」と。

更に遡ると、次の観察もあります。多様性を軸に解釈したとき、僕はこの曲の肯定に対して説得力を感じなかったのです。

 

「流動体について」の歌詞でオザケンが肯定していると捉え得るものは山ほどあります(全部が僕の考えというわけではありません、可能性としての話です)。今の自分、過去の自分、並行世界、今この瞬間、神、宇宙、未来の自分、多様性、他者、歴史の連続性、生と死。

しかし、こんなに何もかも肯定したら、本質的に何も言っていない道化と同じです。全てを否定することで無意味に漸近したフリッパーズ時代と全てを肯定することで無意味に漸近する2017年、みたいな対比構造も冗談めかして作れます。

 

可能性の許容という点では、「流動体について」は「ある光」と比較することができます。「ある光」についてはこちらの記事をご参照下さい。

d.hatena.ne.jp

 

「流動体について」が「ある光」より過激なのは、今ある可能性を肯定するのみならず、過去あった可能性の結果としての並行世界を肯定してしまうところです。普通に生きている限り交わることのない並行世界をあえて肯定するというのは、誰しも今持つ可能性の許容より進んだテーマなのかもしれません。

けれど、並行世界の許容は一歩間違えると無意味さの許容につながります。並行世界というのは、想像できる限り、あるいは想像を超えてあらゆることが起こりえます。それらの全てを赦すとしたら、これからもこれまでも等価で、生も死も等価で、良いことも悪いことも等価だと。そうなりかねません。

 

こういう形での無意味さの受容は「人生万事塞翁が馬」「無為自然」「老境」みたいな感じがして、それはそれでめちゃくちゃカッコイイと僕は思います。しかし、オザケンがそう思っていないらしいのは皆さんご存知の通りです。「流動体について」でも、決意という形で本当のことを目指しているように見えます。

 

いくつか注意を。

まず、完全に否定抜きの肯定ではありません。例えば、彼は反多様性(グローバリズム)に対して否定的です。今回の歌詞でも、あんまり良くしていこうとする決意の感じられない並行世界(?)まで赦したわけではないと思います。しかしその否定の部分は補完するしかなく、強く印象に残りません。また、いずれにせよ歌詞で描写される「間違いに気づかなかった」並行世界以外にも莫大な数の分岐を赦すことになる気がします。僕の今回の解釈では、赦すはずです。

次に、以前のオザケンも「無意味と有意味の境界でギリギリ踏ん張ったような生命と瞬間の全肯定」というテーマが根本にあったように思えます。これは完全に僕の個人的な解釈ですが、「流動体について」ではその強い肯定が表に出てきたように僕は見えます。

最後、『魔法的』の他の新曲にも「破綻しかねないほどの肯定を表に出してしまうこと」は見られます。次は「フクロウの声が聞こえる」からの抜粋です。

いつか本当と虚構が一緒にある世界へ

“いつか”という譲歩から”本当と虚構が一緒にある世界”という小沢健二史上類をみないほどクソデカい矛盾へ、本気で行こうとしています。とんでもないパワーフレーズだと僕は思います。

 

「流動体について」と「フクロウの声が聞こえる」を比較した場合、僕が当初「流動体」での強い肯定に一種の空虚さを感じた理由がわかります。「フクロウ」では”本当と虚構が一緒にある世界”という「そんなはずはない!」ものが分かりやすく出てきます。そんなはずが無いものを信じるからこそ、強い説得力が生まれるのです*5。一方「流動体」では、だいたい「肯定するのも妥当だよな」というものしか肯定しません。

まあ、それが赦しということなのかもしれませんが、でもこのままでは説得力がないし違和感もあると僕は思いました*6。違和感というのは、表現形態の問題です。単に色々肯定したいなら「(素晴らしいものの具体例)→(抽象)」を繰り返すだけで説得力が出るはずです。「流動体について」の歌詞の後半部分は何故必要だったのでしょうか?

 

結局、僕は次のような発想転換をします。「並行世界や多様性は最終的には肯定すべきものではあるけど、一方ではある種の無意味さを呼び込んで今・ここを脅かすものだ」と。

以前の僕の解釈と比べると、結果的には切迫感の原因を<神>から並行世界に移した形です。どうも僕は切迫感がないと乗れないみたいですね。まあでも、歌詞の前半と後半を繋ぐ解釈としては上手く行ったし、これ以上のものは今のところ思いつかないので、ここで紹介させていただきます。

 

 

歌詞解釈・考察

 

ジャケットの歌詞カードに準拠して全体を1.から11.(第1連から第11連)まで分けます。1-5. が前半、6-11.が後半です。

3/1の『スッキリ!』出演時にオザケンがこの曲について「お話」「短編小説みたいに書いてる」と言及しました*7。僕も基本的には物語のように解釈していきます。ただ、一部の連(3.6.10.)は物語の記述と同時にオザケンの意見をそのまま表明していると捉え、物語と意見の両方を考えていきます。

登場する時間は「過去/現在/未来」の3つ。登場する場所は「ここ/並行世界(間違いに気づかなかった並行世界)/精神世界」の3つです。

なお、他の皆さんが書かれているような蓋然的に読み取れることはバッサリ省略します。そこについては例えば、こちらの記事をご覧下さい。

sinario19.com

 

 では、始めます。

 

 

1.

羽田沖 街の灯が揺れる

東京に着くことが告げられると

甘美な曲が流れ

僕たちは しばし窓の外を見る

現在/ここ

情景描写。小沢健二自身らしき<僕>が家族を連れてニューヨークから東京へ帰ってきた場面です。「ある光」でJFKに旅立ったところとの対比は、多くの人が指摘するところでしょう。

 

 

2.

もしも 間違いに気がつくことがなかったのなら?

並行する世界の僕は

どこらへんで暮らしているのかな

広げた地下鉄の地図を隅まで見てみるけど

現在/ここ 現在/並行世界 過去

過去の<間違い>を基点に並行世界を想像する場面です。

<間違い>について詰められるのは、分岐が「<間違い>が起こった時点」ではなく「<間違い>に気づいた時点」で起こることぐらいでしょうか。それ以上のことは何も分かりません。<間違い>は起こるべくして起こったか?(「本当のこと」に内包されていたか?) 気づかなくてもよいものだったか?(気づくことは意思の作用ではない) 瞬間的な動作なのか継続的な動作なのか? 

個人的には「音楽活動を続けることが<間違い>」なのかなあと曖昧に考えています。まあ、<間違い>が何かは本人にしか分からないことだし、今回は解釈にもほとんど影響しません。

 

 

3.

神の手の中にあるのなら

その時々にできることは

宇宙の中で良いことを決意するくらい

現在/?(神の手の中)

この流れで来るとほぼ意味不明です。前の記事では過去への後悔・反省や<神>の決定論をとって整合化しようとしました。今回は、物語の記述と意見に分けて考えます

物語的な役割は、単に<僕>が回想や想像を止めて現実に帰ってきたこと、そして「並行世界じゃなくてこの世界に今の自分は居るのだし、とにかく良いことを決意していかなきゃなあ」と思ったこと、の2つで良いでしょう。

「過去の自分も良いことを決意した。その結果、間違ったり間違いを見つけたりした」というのは既に言えるかもしれません。また、「並行世界の自分も良いことを決意しているだろう」というのも勿論言えて、最終的には言います。ですが、物語の流れ的に3.ではまだ言っていないように思われます。この段階ではそこまで並行世界にのめりこんでいません。

オザケンの意見として僕が解釈したことは10.に回します。

 

 

4.

雨上がり 高速を降りる

港区の日曜の夜は静か

君の部屋の下通る

映画的 詩的に 感情が振り子振る

現在/ここ

情景描写部。昔の恋人であろう<君>が出てきます。『LIFE』期周辺の恋人でしょうか。

ここは解釈が分かれる所かもしれませんが、「<僕>は「君の部屋」の下を通っただけでまだ<君>がそこに住んでいるかどうか実は知らない」説をとります。6.でも周到に「君の部屋」と言っていますし。更には、知らない上に薄々「20年以上経ってるしもう引っ越したんだろうな」と思っている方が6.がめちゃくちゃ綺麗になり説得力も増すので、以下そう仮定して解釈していきます。

あと、昔の恋人の家に近づいたら当然感情は動くと思うんですが、ここでは「映画的 詩的」と表現するまでに激しく揺さぶられています。元々感性が豊か、20年という時の重み、当時の思い出のフラッシュバック、<間違い>に気がつかなかった場合のことを何となく考えていたところちょうどその場合ありえた選択肢として<君>が提示される、あたりが原因でしょうか。

 

 

5.

もしも 間違いに気がつくことがなかったのなら?

並行する世界の毎日

子供たちも違う子たちか?

ほの甘いカルピスの味が不思議を問いかける。

現在/ここ 現在/並行世界 過去

タクシーの中(?)で子供たちから渡された(?)カルピスを飲みつつ想像する場面。特に並行世界を想像する場合、子供は存在から抹消されたり創造されたりするわけですから、不思議さの度合いは大きいでしょう。

僕が並行世界も最終的に許容するんだと思う理由に、「違う子たち」という表現があります。並行世界の子も自分の子と認める姿勢です。子を思う親の気持ちというやつで、だったら並行世界を安易に否定する方向にはいかないだろう、と読み取れます。一方で、やはり「違う」子たちなのだということが7.で重要になります。

 

 

6.

だけど意思は言葉を変え

言葉は都市を変えてゆく

躍動する流動体 数学的 美的に炸裂する蜃気楼

彗星のように昇り 起きている君の部屋までも届く

意見:未来 物語:精神世界

ここで一気に圧縮率と抽象性が高まります。前後の流れで浮いているため、上手く解釈して整合させなければいけません。

更に、この連は物語と意見が重なっていると僕は解釈します。違和感の原因もそこにあるのではないかと。物語は具体的で、意見は抽象的です。この連は抽象的に具体を書き、同時に抽象的に抽象を書いています。ただ今回の解釈では、物語と意見の間に厳密な抽象-具体の対応が付きませんでした。

 

逐語的に見ていきましょう。

「だけど」:過去の話から未来の話へ移る話題転換を表しています。そしてまた「この世界の過去はもう決まったことだけど、未来はこれから変えられる」という意味での逆接になっていると考えられます。

「意思は言葉を変え 言葉は都市を変えてゆく」:都市という単語については『魔法的』の新曲「シナモン(都市と家庭)」について書かれた次が参考になるかもしれません。

Kenji Ozawa 小沢健二 Official Site ひふみよ

都市は不合理な「神話の力」、あるいは「僕らの力」で動いていきます。意思(3.の決意)は言葉として現れ、その言葉が力となり都市を変えてゆくと。

「躍動する流動体」:意思のダイナミズム、都市のダイナミズム、小沢健二自身、「流動体について」という歌自身、など色々考えられます。

「数学的 美的に炸裂する蜃気楼」:蜃気楼はふつう炸裂しません。流動体は動き続けるが蜃気楼は一瞬で終わるので、流動体そのものではない気がします。僕は本来目に見ることのできない流動体の一時的な変化(へんげ)、目に見える一瞬の姿だと考えます。また、「数学的 美的」「文学的 素敵」と称される「蜃気楼」は、基本的に善の性質を持っています。英和辞典で「mirage」という単語を引いてみましょう。

1蜃気楼(しんきろう); 逃げ水.

2はかない[実現不可能な]夢[希望,願望].

http://ejje.weblio.jp/content/mirage

「強い気持ち・強い愛」で出てきた蜃気楼はおそらく、2番目の意味です。ただ、蜃気楼は現実のコピー的意味合いも持ちますから、「素敵なこと」でとるのか「並行世界に関連したこと」でとるのかよくよく考えなければなりません。僕は今回、蜃気楼に並行世界の意味合いを乗せませんでした。

「彗星のように昇り 起きている君の部屋までも届く」:主語は蜃気楼=流動体でしょうか。彗星のように昇り、という激しい動きは流動体的です。「起きている」ということは、外から見て明かりがついていることにより判断しているのだと思います。「までも」という表現からすると、君の部屋以外にも各所に影響を及ぼしているような……。そして、都市のダイナミクスは(カルピスを飲みきらないぐらいの)短い時間では流石に起きないと思います。この連は何重にも比喩表現です。

 

以上の考察を踏まえて、解釈していきます。物語としての6.の解釈の方が前後関係から推測して(読み手の妄想に満ちた)補完をしやすいので、そちらからいきましょう。

物語としての6.は<僕>の精神世界、ごく短い間の心理描写です。それは5.の最後でカルピスを飲み、7.の最後でもまだカルピスを飲んでいることから分かります。あるいは、「君の部屋」にもう居るはずのない<君>に出会うことからも分かります。

物語としての「だけど」は現実から想像の世界へ場面転換すること、現実では”今・ここ”に居るしかないが、想像の中でなら並行世界に行けることを示しているのでしょう。そう、想像の中でなら「今から接続する未来としては絶対あり得ない平行世界の未来」に(何かの誤りみたいに)行くことができます。

5.の最後で不思議を問いかけられた<僕>は、想像の羽を強く伸ばします。都市と未来を動かす流動体となり、とても素敵で瞬間的な蜃気楼となって自由に動き回るのです。これこそ<僕>の信じる意思の力です。特に想像の中でなら、蜃気楼となった<僕>は君の部屋まで軽々と飛んでいけます。そこには本来居るはずのない<君>が<僕>を待っていることでしょう。また、<違う子たち>も<僕>を待っているはずです。

<僕>はこの一瞬をとても素晴らしいことだと捉えているようです。想像の中での並行世界の体験を素敵だと描写することで、並行世界に対し一種の肯定を与えます。

しかし面白いことに、それが7.で<僕>を脅かします。

 

以上の妄想には基本的に根拠がありません。前後関係で違和感が無ければ他のものでもOKです。ただ、探してみたら少しだけ根拠になりうるものが見つかりました。『我ら、時』より「想像力」、7:09~8:17の抜粋です。 

僕らの世界はどんな風にでも発展する事ができた。ただ、歴史があって、今の世の中が普通になっているだけで、本当は、全然違う世界だってありえた。僕らは時々、そういう全然違う世の中のことを思う。歌なんかを聞きながら、今とは全然違う世界のことを思う。そういう想像力が、世の中を作ってきた。昔も、これからも。想像力には、限りがない。鳥にも、猫にも、風にも国境が無いように、限りがない。だから、僕らの想像力は飛び立とうとする。何かにぶつかる。それでも、飛び立とうとする。

2010年のライブですが、「流動体について」の背景はもうできあがっていたようです。というか、リリース直前に出た新聞広告よりずっと直接的な気がします。

それと、「歌なんかを聞きながら」というあたりは意見としての6.に若干の根拠を与えます。

 

意見としての6.を考えましょう。意見ですから、比喩を用いていても最終的には現実の尺度で解釈します。

まず、流動体らしき個々人の意思、個々人の言葉、変容する都市(東京、ニューヨーク、etc.)の肯定はあるようです。「蜃気楼」は一般的な観点からすると、(「シナモン」の文脈を借りて)お祭りのような一瞬の素敵な騒ぎのように見えます。

ただ「言葉」に着目して6.の意見を考える場合、ここでの「流動体」は変化していく小沢健二自身にまで限定するとよいかもしれません。歌は言葉と音を持ちます。蜃気楼の「一瞬のとても素敵なこと」という意味合いはとても音楽に似ています。そしてまた、流動体が蜃気楼の一時的な変化であったように、歌は彼の分身、一瞬だけの変化と言えそうです。

彼の歌は、様々な媒体で都市をかけめぐって、いつかは君の部屋に届くことでしょう。今は他の誰かが住んでいる「君の部屋」にも届くし、本当の<君>が住んでいる、別の町、別の都市の<君>の部屋にも届くはずです。勿論、歌は「夜の芝生の上に舞い降り」て数分で終わり、人々は日常へ戻りますが。 

というわけで、意見としての6.からはリアルな音楽への賛歌を読み取ることができます。意思と音楽が都市とこの世界の未来を変えていく、と。

 

 

7.

それが夜の芝生の上に舞い降りる時に

誓いは消えかけてはないか?

深い愛を抱けているか?

ほの甘いカルピスの味が 現状を問いかける。

現在/ここ 

物語として見ていきましょう。「それ」は精神世界の中で一度昇った蜃気楼のことだと考えられます。蜃気楼が夜の芝生の上に舞い「降りて」きて、現実に戻ります。「時に」という表現には、想像の終わりと現実の始まりという二つの意味が込められている気がします。

夜の(雨上がりで濡れた)芝生は、案外タクシーから見えているものの描写かもしれません。精神世界のことだと考えると、どこか静けさと怪しさがあります。

 

さて、<僕>はここで葛藤します。6.での並行世界との交錯は、2.5.の想像とは比べ物にならないほど強いかったのです。

「誓い」や「深い愛」はこの世界の妻と子供たちに対するもので良いと思います。「誓いが消えかけてないか?」という自問は、少なからず誓いが減衰したようなニュアンスを持ちます。これは並行世界の慣性が残っているせいだと考えられます。並行世界の<僕>は並行世界の<君>と<違う子たち>に誓いをあげ深い愛を注いだはずです。裏を返すと、並行世界の<僕>はこの世界の妻と子供たちに誓いも深い愛も約束していません。現実に戻ってきたとき、愛や誓いがどこにあるのか分からなくなってしまったような、そんな雰囲気があります。

“子を思う親の気持ち”は相当強いはずなのに、並行世界というガジェットはそれをも曖昧にしてしまいました。<僕>はこの世界の<子供たち>から渡されたカルピスを飲んだまま、今の自分がどの自分なのか考えます。

5-7.の連で具体的な身体衝動を起こしているのは「ほの甘いカルピスの味」だけです。この世界の子供から渡されたカルピスによってギリギリ、<僕>は”今・ここ”(現状)に繋ぎとめられたような危うさがあります。

 

6-7.から僕は「並行世界も素晴らしいものかもしれない。でも<僕>が今居るのはあの並行世界ではないんだ」というメッセージを読み取りたいです。並行世界と今の世界は区別しなければなりません。区別しないと全てが無意味になってしまうから。

やっと『今の解釈の基本方針』で書いたことを回収できました。

 

 

8.

そして意思は言葉を変え

言葉は都市を変えてゆく

躍動する流動体 文学的 素敵に炸裂する蜃気楼

意見:未来 物語:精神世界

6.の繰り返しです。意見として大事なので繰り返されます。

勿論、物語的な意味も持っています。この連では<君>がもう出てこないことに注意してください。7.の最後で現状を問いかけた<僕>は、再び精神世界に入り込んで、この世界の妻と子供たちへの深い愛を決意するのです。並行世界の<君>は並行世界の<僕>が愛せばいいし、現実の<君>は他の誰かが愛せばいい。

これもまた素晴らしき意思の力でしょうか。「そして」という表現からは、葛藤を抜け出していく様子が読み取れるかもしれません。

 

 

9.

それが夜の芝生の上に舞い降りる時に

無限の海は広く深く でもそれほどの怖さはない

人気のない路地に確かな約束が見えるよ

現在/ここ

「無限の海」は “今・ここから繋がる可能未来のまとまり”だと思います。ここに「<僕>が<君>と<違う子たち>と一緒に暮らす世界」は含まれていません。9.を中心にすると、6-7.は未来を考えるにあたりまずあり得ない所から潰したようにも見えます。

「無限の海」は本来とても怖いもののようです。7.同様にここも譲歩ですね。今ある無限の可能性についてただ肯定するだけでなく、そこにどこか恐れがあることも認めています。けれど、深い愛と確かな約束を決意した今では全部OKです。進むべき方向は見えているのだから、それほど怖くない。

「人気のない路地」はこれから進んでいく未来、道の暗喩にとれるでしょう。また、タクシーがこれから進んでいくところの情景描写でもある気がします。

 

 

10.

神の手の中にあるのなら

その時々にできることは

宇宙の中で良いことを決意するくらいだろう

現在/ここ(=神の手の中)

3.の繰り返しになります。6-7.で過去の分岐の結果である並行世界を見、9.で可能未来である無限の海を見て、戻ってきたわけです。

物語としては「色々考えたけど、結局今できてやるべきなのは、良いことを決意することだけだ」と再確認した、というので良いと思います。3.と変わりません。

 

3.で飛ばした、小沢健二の意見としてのこの連を解釈していきます。

さて、この連について(僕にとっては)自然と次のような疑問が浮かびます。「神の手の中にあろうがなかろうが、"今・ここ"でできることって良いことを決意する以外になくない?」と。無神論の人でも、有神論の人でも、決定論の<神>を信じている人でも、もっとふわっとした<神様>を信じている人でも、結局今できることは本当の方向へ向かっていこうとすることだけじゃないでしょうか? そうすると、「神の手の中にあるのなら」という条件はわざわざ書く必要が無い気がします。

ここで再び「並行世界と肯定の無意味さ」が生きています。『今の解釈の基本方針』、あるいは7.の考察を思い出してください。今できることが決意すること以外に沢山あるような状況は、既に書いています。それは例えば、あらゆるものを肯定した状況であり、あらゆるものを否定した状況であり、並行世界とこの世界を全てごちゃ混ぜにしてあらゆる分岐を許容した状況でした。そこではどんな決意も許されるし、あるいは意思を持たないこと(無為自然)すら許されます。これはまた、あらゆることが本質的に無意味で何もする必要のない状況です。

 

「流動体について」の歌詞では、「神の手の中にあるのなら」というたった一節によってその状況を排除しています。この一節によって初めて今の決意、あるいは他の莫大な肯定に意味が生じてきます。こう言うと「決定論の次は、神が全ての意味の起源だと主張するのか」みたいにとられかねませんね。僕が言いたいのはそういうことではありません。

「神の手の中」は多義的な表現かもしれませんが、その中でも「流動体について」で最も大事な意味は、そして最も単純な意味は、「この瞬間、この場所、この世界」だと思います。「神の手の中にあるのなら」という表現はまず第一に、「<僕>は、他の並行世界でもなんでもないこの世界の、今・ここにいる」という至極当たり前のことの表明なのです。

そう、これはとても当たり前のはずです。しかし、これが危うくなる場面は「流動体について」の中で何度も出てきました。2.5.の並行世界を想像する場面、6-7.の並行世界が想像を介してこの世界を蝕む場面、9.の無限の海に立ち向かう場面。

だから、僕はこう考えます。「<僕>が”今・ここ”を生きている」という当たり前すぎるほど当たり前のことの肯定を通じて初めて、他の何もかもが肯定できるのだと。順番は「他の何か→”今・ここ”」ではありません。他の何かは無意味性を通じて”今・ここ”を侵すことがあるというのは、すぐ上で述べた通りです。「“今・ここ”→他の全て」の順番しかありえないのです。

「過去もそのときの自分にとっては今という瞬間であり、良いことを決意していた」と思えば、失敗も間違いも赦すことができます。「並行世界は並行世界の自分にとっての”今・ここ”であり、その時その場所で良いことを決意しているだろう」と思えば、並行世界を肯定することができます。このようにして、過去を肯定し、並行世界を肯定し、意思を肯定し、都市を肯定し、音楽を肯定し、今ある可能性を肯定し、未来を肯定し、多様性、歴史の連続性、生きること、死ぬこと、宇宙、神、永遠……あらゆることの肯定が意味を持っていきます。

 

どうも哲学の時間論から「今という時間の特殊性」の一つでも引用してきた方がよさそうな主張です。しかし僕のこの解釈は、無から生まれたわけでも時間論から生まれたわけでもありません。小沢健二に通底する(と僕が考えている)「無意味と有意味の境界でギリギリ踏ん張ったような生命と瞬間の全肯定」から来ています。

というわけで僕の解釈では、「小沢健二が『流動体について』で肯定したいものは多いかもしれないけれど、その全ての根にある肯定は変わっていない」のです。

 

 

11.

無限の海は広く深く

でもそれほどの怖さはない

宇宙の中で良いことを決意する時に

現在/ここ

最後は未来の暗示と、「宇宙の中で良いことを決意する時に」という今この瞬間この場所の暗示で終わっています。

「宇宙」という通常なら最強の巨大さを誇るワードも、並行世界の文脈の中では「数多ある宇宙の一つ」と小さく見えます。その小ささ、まさにこの世界の宇宙であることが重要なんだと、僕は解釈します。

 

 

結局<神>って何?

 

前の記事の続編として、<神>に対しては何らかの回答を与えておきたいところです。

まず、「流動体について」で出てくるものを小さいほうから並べてみます。

今・ここ < 都市・ダイナミズムの働く時間 < 宇宙=この世界 < 並行世界 < 神

3.や10.の「その時々」という表現から「神の手の中」では分岐が起こっているような印象を受けます。そうすると、全ての平行世界、全ての可能な分岐をその手の中に持つ時空と運命の神、にこの<神>は思えます。

ただ、ここまで<神>が巨大な存在だと、前の僕の解釈みたいに決定論的に人に干渉するか不明です。<神>の視点(?)だと、決定するというより単に分岐を一つ選び見た感じになる気がします。

 

上の歌詞解釈で「神の手の中」を「この瞬間、この場所、この世界」の意味と取れる理由を説明していなかったので、ここでしましょう。非常に単純な話です。矮小な人間である<僕>と上述の想像できない大きさの<神>を対比したとき、<僕>に残るのは”今・ここ”以外にありえないからです。”今・ここ”を示すフレーズとして「神の手の中」以上のフレーズはない気がします。

この対比の中で特に時間に注目すると、オザケンお得意の「瞬間と永遠」を引き出せます。ここではトップダウン式に、永遠から瞬間を取り出しているんですが……。

 

というわけで、僕の<神>の解釈は次のようになります。

  • <神>は平行世界の文脈を吸収することで明らかに<神様>より巨大になった別物である。
  • 元々<神様>だった可能性はある。
  • 時空と可能世界の全てをその”手”の中に収めている。
  • 巨大すぎて人に干渉したり運命を決定しているか不明。少なくとも、人間が何らかの意味で意思を持つ余地はあるらしい。
  • 巨大すぎるし<神>は何らかのシステム(人が理性で把握できるもの)ではないかもしれない。
  • 巨大すぎて宗教色が薄い。
  • 歌詞に出てくるぐらいだし、オザケンは多分この<神>を信じてる。

全般的に以前と今のオザケンを比較すると、ミクロな視点の細やかさこそ変わっていませんが、マクロの視点は青天井に広くなっているよう観察できます。「流動体について」は並行世界とそれを統べる神が出てきました。「フクロウの声が聞こえる」では”ベーコンといちごジャムが一緒にある世界”とか”本当と虚構が一緒にある世界”とか、矛盾に満ちた世界が出てきます。この傾向は今後どうなっていくのでしょうか?

 

 

解釈の要約

 

  • 物語としては、自分が”今・ここ”に居ることを再確認するお話。
  • 最終的には「過去」「並行世界」「多様性」「意思」「都市」「音楽」「可能性」「未来」なども肯定する。
  • ただしこれらの肯定は”今・ここ”の肯定の後。これらを見境なく許容すると”今・ここを”侵食する場合がある。
  • <神>は巨大であり、その巨大さゆえに人に”今・ここ”を想起させる。

 

 

「流動体について」の総評と感想

 

以下、個人的な総評と感想です。

僕は19年間待ってたりしていないので、割と軽口を叩きます。生きていることは喜びますけど、曲については「いいものもある、だけど悪いものもある」の姿勢です。

 

そもそも、「流動体について」は詩としてかなり失敗しているところがある、と僕は思います。以前のオザケンの文脈から分析した(そしてコンテキストを知らない人の自然な反応とも見れる)こちらの記事をご覧下さい。

i-love-existence.hatenablog.com

 

今回の解釈を通して僕が初めて気づいたのは、「流動体について」の歌詞は詩というより意見付の物語だった、ということですね。歌詞の作り方が全然違います。

しかし物語として見る場合でも、やはり抽象部が連続してて違和感があります。特に意見と物語が同時平行する(と僕が解釈する)3.6.10.あたりは前後の流れで完全に浮いています。ここまで解釈してようやく消えてくれましたが、初見のときからある程度スムーズかつキャッチーな曲にしていただけるとありがたかった……。

悪い部分は沢山言えるので歌詞の良い部分を探したいのですが、現時点だと元々ある部分なのか自分が二次創作的に捻じ曲げてしまった結果なのか判断できないので、何も言えません。

まあ、個人の感想になりますけど、ここまで補完した今なら「流動体について」を「裏にエモい物語が流れてる歌詞だなあ」と思いながら聞けます。

 

サウンドについても「イントロからおかしい」とか「ベースとドラムがもうちょっと音量大きいと気持ちよくなれる」とか、本当は色々突っ込み所はあります。あるんですが、聞いてると慣れますね。色々考慮しても、サウンドは総合的に高く評価したいです。

 

というわけで総評。個人的には大丈夫になったけど、初心者に勧めようとは全く思いません。

 

 

おわりに

 

今回作った解釈、正直言うと蓋然性に全く自信がありません。かなり捻じ曲げた独自解釈にカテゴライズされるべきなのか、それとも誰しも考えるようなことの組み合わせなのか、読者の方々の判断をあおぎたいと思います。

ただ一つ書いておきたいのは、基本的に補完した部分は全て違和感を解消するためであって、趣味により必要以上に盛った部分はない、ということです。少なくとも僕はそういう気持ちで解釈をやっていきました。

僕の解釈に違和感がある方は、上の考察で大量にパーツをばら撒いたので、それを拾ってきて再構築するだけで新たな解釈ができるかもしれません。

 

あと、この記事のタイトルに「決着」って書いてますけど、全然決着ついてないです。今の解釈は短期間に急造したものなので、今後穴が見つかる可能性は結構あります。違和感に逆戻りです。根本的解決のためには、前の記事でも書きましたけど、フリッパーズ時代から考え直さなければいけません。

更に、「流動体」の抽象部に対応する具体がこれからの新曲で示される可能性があります。今後の新曲で<神>について語られることを期待します。いや、<神>はどうでもいいのでただ新譜を期待しております。「フクロウの声が聞こえる」「シナモン」「飛行する君と僕のために」あたりはもっとキャッチーで他人に勧められるものになると思うし、なんなら「涙は透明な血なのか?」の基礎英語付でも良いので、どうかよろしくお願いします。

 

さて、今回の僕の解釈は集合知とサンプリングに依るところがとても大きいです。この後で本文で引用したものを含め参考文献・引用文献をまとめておきます。勝手に引用させていただいたことについて、ここでお詫びとお礼申し上げます。ありがとうございました。

 

そしてここまで読んでくださった方々。15000文字もの長文にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

 

 

参考文献・引用文献

 

 

 

 

 

*1:「ある光」、「美しさ」、「ラブリー」と「いちょう並木のセレナーデ」など、例を挙げるまでもないかもしれません。

*2:そういえば不思議と、身の回りの若い人たち(サンプリング数極小)はみんな決定論解釈に近いものをとっていましたね。若者は悲観論が好き、という傾向はどのぐらい一般化できるんでしょうか。

*3:”でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。 たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。” ゲシュタルトの祈り

*4:過程は違えど最終的には「並行世界の肯定、および今の自分の肯定」という点で一致しました。

*5:前の記事の繰り返しになりますが、「さよならなんて云えないよ(美しさ)」の”僕は思う! この瞬間は続くと! いつまでも” という素晴らしいフレーズは「僕は思う!」という譲歩と「この瞬間は続くと! いつまでも」という「ありえないこと」の組み合わせで成り立っています。

*6:単純な赦しと見ると説得力が無いよう僕が感じたのは、具体例が不適切で譲歩も不足しているように見えるなど歌詞に問題があるというのと(『総評・感想』参照)、僕の人生経験の不足、19年も待ってきたわけではないという辺りに原因があると思います。ところで、オザケンを全く知らない人にはどのぐらい説得力があるのでしょうか?

*7:3月1日「スッキリ!!」小沢健二出演コーナー文字起こし - ozawa100’s diary